「どうですか?」
歌い終えた北浦が聞いてきた。
「──驚きました」
澪は目を丸くしていた。
「北浦さん、歌、とっても上手なんですね。思わず聞き惚れてました。あ、お世辞じゃないですよ」
「いや、僕の歌のことはいいんで……困ったな、まさか自分の歌のことを言われるとは思わなかった……」
「す、すいません。別に馬鹿にしてたわけじゃなくて。はい、ちゃんと聴いてましたから。とにかく酒田、凄い! って歌ですよね」
「とにかく酒田、凄い……ですか。あはは、そうですね」
北浦が無邪気に笑ったので、澪は少し気持ちが軽くなった。
「なんていう歌なんですか、これ?」
「酒田甚句、です」
「甚句?」
「民謡、くらいの意味です。すいません、歌のことはあまり詳しくないので、それ以上は説明できません」
ふたりは石畳の坂を上がり、相馬樓に入った。「相馬樓」という名前は観光施設になってからのもので、元々は江戸時代から続く料亭「相馬屋」だった。ただ、現存している建物は江戸期のものではなく、明治二十七年の庄内大震災の際に焼失した後に再建されたものだ。
相馬樓
澪たちは酒田舞娘の歓迎を受け、二階で彼女たちの演舞を見学することになった。
「酒田の花柳界は戦後になってもまだまだ栄えていて、芸妓さんもたくさんいたんですよ」
演舞を待つ間、女将がそう説明してくれた。
他の客たちに混じって、澪たちは舞娘の演舞を見た。数曲の披露の中には、さっき北浦が口ずさんだ「酒田甚句」もあった。北浦の歌よりも華やかだったが、どこか哀切さを感じる響きがあった。
「それじゃあ、もう少し寺でも回りましょうか」
見学を終え、相馬樓を出たところで北浦が振り返った。「はい」と、澪はそれについていこうとしたが……。
「澪!」
ふたりの前で止まった車から、澪の母親の律子が顔を出した。
「お母さん、どこ行くの? あっ、そうかこの時間……『傘福』だね」
「そう、今日は集まりの日だから」
「だよね。あ、お母さん、こちらは市立資料館の北浦さん。北前船のことをレクチャーしてもらってるところで」
昨日帰宅して、北前船の仕事を任されたことを母親には伝えていた。
「そうだ、北浦さん。いつもと逆になっちゃいますけど、『山王くらぶ』はどうですか? どうですかって言い方もなんですけど……」
「あぁ」と北浦はうなずいた。「実は私、山王くらぶはお邪魔したことはありません」
なんとなくだが、そんな予感はしていた。ただ、酒田の北前船関連のことなら、なんでも詳しい北浦にしては珍しい死角だとは思ったが……。
北浦が快諾してくれたので、澪は彼とともに母の車に同乗して山王くらぶへ向かった。
歩いても数分の距離のところにある山王くらぶは、相馬樓と同じく、元料亭だったが、こちらも今では観光施設になっていた。
国の登録有形文化財であり、明治期の趣深い建物だが、その向かいにはすでに廃業した古いキャバレーがあった。北浦に説明は求めなかったが、これも遡れば花街の名残のひとつなのだろう。
山王くらぶ
「私、前から傘福を作るのが趣味で。北浦さん、傘福ってご存知ですか?」
「ちょっとお母さん、失礼だよ。北浦さん、酒田の歴史のことに凄い詳しいんだから。知らないわけがないでしょ」
「酒田の歴史、そこまで詳しいわけではないですが……傘福のことならよく知っています。見たいですね、傘福」
「じゃあ、早速。ほら、澪もぐずぐずしないで」
律子に背中を押され、澪は山王くらぶの中に入った。律子に連れられ、ここはなんどか訪れたことがあるが、改めて見ると、同じく元々は料亭だけあって、やはり造りは相馬樓に似ている。
三人を迎え入れたのは、華やかな色彩の洪水だった。
傘福
傘福。
その中でも一際大きなものには、直径二メートルの傘に九百九十九個の細工がつるされ、その高さは二・七メートルもあった。およそ十年ほど前、酒田商工会議所女性会創立二十五周年を記念して製作されたものだ。
元々、傘福とは酒田周辺に伝えられる、つるし飾りだ。そこに暮らす女性たちが、我が子の成長、家族の健康、商売繁盛等といった願いを込め、手作りしてきたものだ。
傘の先に幕を巡らして様々な、そして、それぞれに謂われのある掌サイズの飾りが提げられている。着物の端切を利用した細工物で、農作物、動植物、魚等の意匠がある。たとえぱ、「海老」なら「夫婦でともに腰が曲がるまで長生きできますように」、「鞠」なら「円満に美しく」、「金太郎」は「健康のシンボル」、「おくるみ人形」は「可愛い子がすくすく育ちますように」といったように、ひとつひとつに意味がある。その種類は主立ったものだけでも、百種類以上あるといわれていた。
「傘福は……」
その大きな傘福を眺めながら、北浦は言った。
「酒田周辺でずっと作られてきたものですが、その発祥は定かではありません。ただ、どこかから北前船で持ち込まれたもの、という説が根強いようです」
「傘福まで北前船に関係してるんですか?」澪は驚いた。「お母さん、知ってた?」
「知ってるわよ、当然でしょ。北浦さん、二階にどうぞ。傘福を作っていますから」
律子に案内されて二階へ行くと、その大広間では中年の女性たちが大きな卓を囲んで作業をしていた。それぞれつるし飾りを作っているところで、卓の上には煌びやかな色どりが踊っていた。
大広間には作業スペース以外にも大小様々な傘福の展示があり、北浦はそれをひとつひとつ、興味深そうに眺めていった。子どものように、目をきらきらさせている。
そんな北浦のことを、澪は少し離れた場所から見守っていた。
「──どうですか北浦さん」
律子が北浦に話しかけた。
「素晴らしいです、やはり傘福は。こうして見ていると、昔の酒田を思い出……」
北浦はなぜか言葉に詰まった様子だった。律子が首を傾げていると、
「……思いを馳せることができますね。町全体がきっと、この傘福のように煌びやかだったんでしょう」
そう言った北浦の目はやはり、今、そこにある傘福を見てはいない──澪はそう思った。
どこか遠い……否、その目には往時の酒田の町がはっきり映っている。
澪にはそんな気がしていた。
「え? 北浦さん、山居倉庫、行ったことないんですか?」
山王くらぶの見学を終え、澪と北浦は市役所前で別れることになった。そこまで歩いてくる途中、澪は珍しく自分のことをかなり喋った。話の流れで、大学生の頃、帰省するたび、山居倉庫にあるお土産物の販売所「夢の倶楽」でアルバイトをしていたことまで話していた。
──山居倉庫ですか。遠くから眺めたことはありますが。
「北浦さんて」
酒田の生まれなんですよ? と問いただそうとしたが、
「いや、あそこって若い人がデートに行ったりする場所ですよね。私には縁がないですから」
そう言って、北浦は苦笑いした。先手を打たれてごまかされた気がしたが、澪は黙っていた。
──山居倉庫。
明治二十六年、酒田米穀取引所の倉庫として、最上川と新井田川に挟まれた土地、山居島と呼ばれるところに建てられた施設だ。倉庫としては一応、現役の建物だが、最近は観光客の増加などもあり、あまり使われることはなくなっていた。
「それでは私は資料館に戻ります」
北浦は頭を下げ、その場から立ち去ろうとした。
「あっ、北浦さん!」
「はい」
足を止めた北浦を見て、澪は戸惑った。声をかけておいて、自分がどうして彼を引き留めたのか、その理由がわからなかったからだ。
「あ、あの……」
澪が言い淀んでいる間も、北浦は律儀に背筋を伸ばし、彼女の言葉をじっと待っていた。
「あ、あの……山居倉庫、裏のケヤキ並木が爽やかだから昼もいいですけど、今は夜もライトアップされてて、とても綺麗なんです。それに新井田川には屋形船が出ていて。中で食事もとれるんです。観光振興課の歓迎会で、私、乗せてもらったことがあって……そうだ、北浦さん」
「は、はい」
一気に捲し立てた澪に気押されたように、北浦がふと後退った。
「あ、あの、つまりですね」
困って視線を逸らした先には、酒田獅子頭があった。一対の大きな顔に睨まれたような気がして、澪は覚悟を決めた。
「北浦さん。今晩、もしもご予定がなければ、一緒に山居倉庫を見に行きましょう。新井田川から海に出る屋形船もあるんです。そこでご飯も食べられますから。……お礼をさせてください」
「お礼と言われましても、私も仕事でしていることですし」
「……」
「それに資料館に戻ったら、少し仕事がありまして」
北浦が答えるのを、澪は息を止めて聞いていた。
「……」
「でも、その後でよければ。六時くらいからでも大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です」
澪はすぐに返事をした。
「それではまた後で、これで失礼します」
そう言って、北浦は去っていった。その背中をしばらく見つめていた澪だったが、
「……ふぅ」
大きく息を吐いた。
……どうして。
いきなり、あんなふうに北浦のことを誘ってしまったのだろう?
北浦からしてみたら、どう考えても、単なるお礼には思えないだろう……。
そんなことはわかっていたのに。
人見知りのくせに、いつも……前から、変なタイミングで大胆な行動に出る癖がある。高校時代、別のクラスで、それまでいちども口を利いたことがない男子に、いきなり告白してしまったことがある。
気持ちが勝手に空回りして、距離感がおかしくなってしまうことがある。根本的にコミュニケーション能力に欠けている証拠だ。
……いや、そもそも。
自分は北浦のことをどう思っているのか?
──好き、なのか?
たった二日、行動をともにしただけで、そんなに簡単には好きになるはずがない。
ただ、あの北浦という男に興味を持ち、惹かれているのは事実だと思う。どうしてだかわからないが、彼のことをもっと知りたいという気持ちが膨らんでいる。
「だから」
獅子頭に向かって、小さな声で澪は言った。
「──それってつまり、好きになりかけてる、ってことじゃないの?」
「あぁ、これは本当に美しい」
新井田川に架かる橋を渡っている途中、北浦は感嘆の声を上げた。その素直な感情の吐露に、横を歩いていた澪は思わず頬を緩ませた。
橋の向こう、ライトアップされた十二棟の山居倉庫の建物が、白くぼんやりと浮かび上がっていた。周囲が薄暗いため、それは一層、幻想的な景色に見えた。
山居倉庫
山居倉庫は土蔵造りの建物で、湿気を避けるための二重屋根が、正面から見た際にいいアクセントになっていた。倉庫裏にはケヤキの木が並び、景観だけではなく、日よけ、風よけの機能を果たしていた。
屋形船に乗るつもりだったが時間が合わないことがわかり、ふたりはそこにある観光施設の中で夕食をとった。食事中、澪はいろいろと話しかけてみたが、無口な北浦が相手ではあまり会話は弾まなかった。ただ、澪がする市役所の話や、東京での大学生活の話を、北浦は黙って、だが、しっかりと聞いていた。
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